伊达政宗歌集
除了是出的武将与政治家以外,出身名门的伊达政宗还是位相当不错文人,他所写的和歌有许多流传了下来。下面,我就把其中的一部分登出来。由于这些和歌的翻译相当困难,因此我只能把其中的几首著名的译本登出来,其他的都是日语原文,有兴趣的朋友可以参详一下啊。
天正十八年正月七日 佳例的连歌会上的作品
  「七種を 一葉によせて つむ根芹」
外面的世界吉他弹唱文禄二年 原田宗时死时所写的悼文
  な 「夏衣 着つつ馴れにし 身なれども 別るる秋の ほどぞ物憂き」 
  む 「虫の音は 涙もよおす 夕まぐれ 淋しき床の 起き伏しも憂し」
falsealarm  あ 「哀れげに 思うに連れず 世のならい 馴れにし友の 別れもぞする」
  み 「見るからに なお哀れ添う 筆の跡 いまよりのちの 形見ならまし」
  だ 「誰とても ついには行かん 道なれど 先立つ人の 身ぞ哀れなる」
  ふ 「吹きはらう 嵐にもろき 荻が花 誰しもいまや 惜しまざらめや」
文禄三年二月二十九日 在吉野举行的赏花歌会上的作品
  花願   「おなじくは あかぬ心に まかせつつ 散らさで花を 見るよしもがな」
  不散花風 「遠く見し 花の梢も におうなり 枝に知られぬ 風や吹くらん」
  滝上歌  「吉野山 滝津ながれに 花散れば 井堰にかかる 波ぞ立ちそう」
  神前歌  「昔誰が ふかき心の ねざしにて この神垣の 花を植えけん」
  花祝   「君がため 吉野の山の 槙の葉の ときわに花の や添わまし」
庆長六年正月 新年前后
  「あらたまの 年に常葉の 染まず 今日の子の日の 松のみどりは」
  「故郷の 一重の花も ひらくなる 思いこそやれ 九重の春」
庆长八年八月 在镰仓游览时
  「月を見ば おなじ空ぞと 思い出よ 東の方に こころとめずも」
庆长十三年 在从江户回国的途中
铁梨花片尾曲  「旅行信馬人家を過ぐ丰收锣鼓古筝
   往々問いきたる道うたたはるか
   春雨衣を湿し日まさに暮るる
   このとき開くや否や故郷の花」
international love  「初春の 雨は旅寝も つらからじ うえにし木々の 花を思えば」
庆长十九年 中秋赏月的时候
sj利特
  「ひととせに 今宵ばかりの 月の空 たぐいまれなる 影を見るかな」
  「歌びとの 秋のさなかの 月になお 心のうちや 澄みわたるらん」
元和四年三月二十一日 在江户的家中
  「諸人は
 薄花染の きぬぎぬと 恨み顔にや 帰るかりがね」
  「花さけば 陰さりながら 諸人の 心にかわる 春のかりがね」
同年 五男宗纲的葬礼举行时
  「いとけなき 人は見はてぬ 夢かとよ うつつに残る 老いの身ぞ憂き」
  「散るとても 御法をうくる 花の舟 浮かびていたる 汀なるらし」
同年 中秋歌会时
  「昨日まで 降りにし雨も 心して くまなき月に 今宵会うかな」
  「あらたなる 光を月に 添えんとや 今日よりさきの 雨は降りけん」
元和五年元旦 家臣前来道贺时
  「年のあけて 春はまだきの 折りながら 花と降り敷く 庭の淡雪」
元和七年顷
  醉余口号 「馬上少年過ぐ
        世平らかにして白髪多し
        残躯天の赦すところ
        楽しまざるをこれ如何せん」
       「四十年前少壮の時
        功名いささかまた自らひそかに期す
        老来識らず干戈の事
        只把る春風桃李の巵」
  上面这两首我想专门说一下。这是政宗在元和七年(1621年)54岁时,在一次喝醉了酒以后所写的。这两首和歌充分反应了当时政宗年老时的心境,也许这就是人们所说的“德川家康死后,政宗已经没有了夺取天下的想法”。其中前一首和歌的中文译本相当出名,我也非常喜欢,现在登在下面,供大
家欣赏:
         马上少年过,世平白发多。
         残躯天所赦,不乐是如何?
辞世句
  「曇りなき 心の月を さきだてて 浮世の闇を はれてこそゆけ」