第6課 [神の手.人の手]
「オギャー!」新しい生命誕生の瞬間である。それまで母の胎内で生きてきた一つの生命が、自らの肺で呼吸し、自らの力で生きると独立を宣言する声でもある。この生命の誕生というドラマ。二百七十日余りの間、子宮という小さな宇宙で演じられる創造のドラマ。そこには、四十億年という気の遠くなるような時間の流れの中で、原始の海に誕生した生物が陸の生活に適応し、人類へと進化してきた歴史がそっくりそのまま凝縮されているとも言う。今では、生命のメカニズムが少しずつ解き明かされ、人体が「細胞」から出来ていること、たった一つの細胞が母親の胎内で分裂を繰り返し、およそ十か月かけて四兆にまで増え、次第に人間の姿になっていくこと、また、受精時の染体の組み合わせにより男女の性別が決まり、その染体中のDNAと呼ばれる物質が遺伝の情報を伝達することなどが分かってきている。それにもかかわらず、我々はこの生命の誕生を、人の手の及ばぬもの、神の領域に属するものとして「自然の摂理」と呼び、謙虚な姿勢で受け入れてきた。
だが、人間は、いつからともなくその謙虚さを忘れ、神の領域にまで踏み込み始めた。「自然の摂理」であったはずの生命の神秘に科学の光を当て、その秘密のベールを一枚ずつはが
し始めたのである。そうすることによって、それまではうかがい知ることのできなかった複雑な生命の仕組みを徐々に明くらかにしてきた。その結果、神秘のベールに包まれていた胎児の様子が、今では出産前に確かめられるようになり、その性別を知ることができるまでになった。また、「自然の摂理」を科学的に解明する過程で手に入れた知識や技術を応用し、それまでは人間の力を超えるものという捕らえ方をしていた生命の仕組みに対して、積極的に手を加えることも始めたのである。
現在の産婦人科医療は、その良い例である。「人工受精」や「体外受精」などが不妊治療として一般化しており、さらに、第三者の子宮内で受精卵を育てる、いわゆる「代理母」さえ存在する。また、産む前に男女の判別が可能になったばかりでなく、精密な検査によって胎児が「正常」か「異常」かを見極め、必要ならば、胎児で治療.手術することも可能である。これらはすべて、人間の「自然の摂理」に対する一つの挑戦にほかならず、神秘的な神の領域を謙虚な姿勢で観察し受け入れていたのとは、大きく異なると言えよう。
さらに現在では、遺伝子の微妙な操作で、クローンと呼ばれる全く同一の個体を作り出すことが可能であり、野菜や果物はもとより、クローン羊、クローン牛が作り出されている。
理論上は、クローン人間を作ることすら可能なのだ。遺伝子を組み換えて作り出される新しい種類の農産物などは、既に我々はそれを口にしている。また認知症、白血病などの難病を治療するため、中絶された胎児の細胞を患者に移植する方法などは、もう実用段階に来ている。医療技術の進歩はとどまるところを知らず、歯止めを失った感すらある。
確かに平均寿命は飛躍的に伸び、死亡率は大幅に低下してきた。が、それと並行して医療技術の進歩が引き起こす法的、倫理的、宗教的問題は、関係学会に限らず広く論議を呼び、以前にもまして大きな社会問題となっている。いまだに続く脳死を死と判定するかどうかという問題などはその典型と言っていいだろう。このような論議が起こる根底には、生と死の問題は、医療の分野というよりむしろ神の領域にかかわる問題であり、医学といえども手を出すべき問題ではないという考え方があるのではないだろうか。
医療技術のより一層の進歩が望まれる一方で、人間が人間のコピーを作り出したり、胎児に手を加えたりということも可能になりつつある現在、我々は、「自然の摂理」という神の領域と人間の領域の境界線をどこに引くべきか、言い換えれば、人間が踏み込むことができる領域はどこまでなのか、ここでもう一度、改めて考えてみる必要があるのではないだろうか。つないだ手